Oct 17

10月4日の講演会も無事終わりました。ご協力有難う御座いました。スピーカーの今森氏ご苦労様でした。来場者34名、うち新会員5名の参加となりました。

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今回の講演では、LA龍馬会の副会長、今森氏が「坂本龍馬とジョン中浜万次郎」の関係を中心にお話をしていただきました。

“坂本龍馬は果たしてジョン万次郎に会ったかどうか判らないが龍馬が土佐藩の河田小龍を通じてジョン万次郎の事を知った事は竜馬の将来、見識を大きく変えることになった。”

また、龍馬周辺の人物、特にグラバーと亀山社中についてまで興味深いお話をしていただきました。

最後に、LA龍馬会を継続、発展していく為に参加者に無記名のアンケートをお願いしましたが、多くは良かった(中にはまあまあ)とのご意見をいただいております。
ある方のコメントは大変勉強になりました。今度の役員会にて検討することにします。

Oct 10

坂本龍馬、そしてジョン・万次郎、トーマス・グラバーの絆
講師: 今森貞夫

10月4日に行われた講演会での、今森氏の講演概要は以下のとおりです。

◆冒頭で認識しておかねばならないこと。

脱藩した龍馬が勝海舟の引き合わせで築地軍艦操練所で会ったジョン・万次郎、追って直ぐ長崎で会ったイギリス人豪商トーマス・グラバーは龍馬に大きな影響力を与えていく。また、龍馬19歳時、浦賀に来航したペルー提督やアメリカ大統領ジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソン、ベンジャミン・フランクリンはフリーメーソンのメンバーであったと言われる。

中でも、龍馬が後に明治維新へ向けて傑出した役割を果たす「薩長同盟」成立の真の役者はグラバーの影響が大きかった。

◆何故、龍馬が「薩長同盟」成立の後見人に成れたか

龍馬の本領発揮は1866年1月21日の後見人になったことで、天下に確かなものとした。
特に明治維新を比較的混乱なく進めた歴史的躍動期間は、龍馬が暗殺せれる3年前半前に凝縮されている。

この間を時系列に検証する。

第一に勝海舟という人物の出会いに加えて、彼の門下生として腕を買われた。
1864年、2月23日に幕府は神戸海事操練所の勝海舟と龍馬を、下関海峡の前途を重く見て長崎に送った。歴史本では、外国艦隊と長州藩との仲裁と調整に、勝海舟たちが派遣されたというに綴られているが、実際には少々ニュアンスが違っている。
どだい神戸海事操練所という下っ端の人間が、幕府の代表として戦争の調停に赴くなど唐突であり、外交儀礼からいってもみっともない話である。
正式に行なうなら外国奉行あたりが妥当であり、横浜には外国政府機関が並んでいる。したがって、勝と龍馬がわざわざ長崎まで足を運んだのは。それ以外の務めである。ずばり、探索だ。

幕府から見れば、あくまでも朝廷を重視する長州藩は危険な存在である。そこに武器、艦船などを売りつける長崎を基点にする商館がきになる。いったいどうなっているのか、という探索、諜報活動を知る。その重要な任務をおびていたのが勝つと龍馬である。

幕府にとって、神戸海事操練所には値打ちがあった。作った目的は海軍力の育成だが、それは表向きであって、もうひとつの裏の顔がある。情報活動だ。艦船の操縦技術を教わりながら外国人教官と親しくなって、様々な情報をかき集める。
勝は、幕府の諜報畑を歩いてきた人物である。それも根っからの対外国の諜報を主としている。プロとしての目には、土佐藩が送った若い龍馬のなみなみならぬ素質が気に入ったのであろう。傑物の勝はすぐさま幕府側に取り込む。つまり、この時点で、再脱藩した龍馬は幕府側の役割をすることにもなる。

この役回りは無節操な感じに受け取られるかも知れないが、それは先入観であって、封建社会では珍しくない。裏をかえせば優秀でなければこなせない芸当である。度胸があって、柔軟でどこへでも踏み込んでいく。人懐っこく、人を惹きつけ、知略識見を頼れる逸材。どこの藩にも属さず、そしてどこの組織にも属している。このはまり役が龍馬である。

長崎に来た勝は、ある人物の家に向かった。その家とはやはり幕府が1855年に外国の海事技術を学ぶ専門学校、長崎海事伝習所時代からの付き合いをする小曾根英四郎の家であった。先代は出島を開発したというから長崎では顔役である。勝は龍馬を伴って、小曾根を頼りに長崎人脈を手探った。

長崎領事館で、二代目オールコック公使にも会って、1884年5月14日付けで勝海舟が口上した書簡が残っている。
「幕府には、長州藩を叩く計画があります。その前に、諸外国が長州を攻撃すれば、将軍はその機会を奪われるため、失望するはずです」 幕府は英国に、長州はこちらが打ち砕くから、そっちは手を引いてくれと頼んでいる。幕府の恐れは一目瞭然に思える。前年の1863年の夏、薩英戦争からの苦い教訓である。戦争の結果、両者はまるで見えない何かで引きずられるように、思いもかけぬ友好的な間柄になった。

今では薩摩は豪商グラバーの後押しで軍備増強をはかっている。油断はならない。長州までも同じ轍を踏まれては恐怖となる。したがって、英国は手を出さないで、と幕臣の勝は訴えた。(期待を裏切って、同年8月4カ国艦隊が下関を砲撃、一部占領)しかし、この時を境に英国との接触回数ががぜん多くなる。この時がまさに勝、龍馬共に英国に身を寄せた瞬間ではなかったろうか。

次に、勝と龍馬が向かった先は、江戸にまで名前が轟き渡っている豪商グラバー邸である。龍馬がはじめて訪れた長崎。そして、龍馬とグラバーの最初の接触はこの1864年2月である。彼らは狭い長崎に約40日間も腰を落ち着けている。このときグラバー28歳、龍馬31歳である。

このとき両者がはじめて会ったことになる。英国政府のエージェンとであり、フリーメーソンのトーマス・グラバーが龍馬をみて何を思っただろうか。薩摩に五代友厚がいるとすれば、土佐と幕府の二股をかける龍馬という人物。この出会いで以って、グラバーは自分の利益にとって組み易く上手にいく相手でなると踏んだのではなかろうか。龍馬も器が広い、これまでも他人の考えを次々と受け入れている。江戸に出て、武市半平太と親しくなり、それまでの攘夷一辺倒だった思想に勤皇思想が加わった。それから勝海舟の出会いで外国への意識が広がった。そして、今まじかにみる初めてのイギリス人。背後に見知らぬ世界が口を開けている。この出会いも龍馬にとって大きな衝撃であったに違いない。

この衝撃が反映してか、史料によるとこの年の8月末から11月に一度姿を現し、その後、消息が分からず、また、翌年4月5日、京都の薩摩藩吉井幸輔邸(氏は後日、英国エージェントして維新を上手く駆け抜けた)に現れた。この2つに割れた空白に月日、つまり前半三カ月、後半の六カ月が、「龍馬密航説」と呼ばれているゆえんである。下関市立長府博物館にある「旧臣列士」の福原和勝履歴の記述に「慶応三年(1867年)某月、藩主の密旨を受け、土佐坂本龍馬と倶に清国上海に航し外国の状況を探討す」長府藩は長州藩の支藩。慶応三年は龍馬が死んだ年、年月の符丁が合わないが、先の密航説と合わせると龍馬は少なくとも二度、海外へ渡っている可能性がある。長崎から上海の航路距離は長崎から江戸の距離より120キロも近いのである。グラバーたちが、頻繁に上海、江戸を行き来していることを考えれば、龍馬の上海密航などわけのない話で、好奇心が強く探索を礎としている龍馬が行かなかった、と言う方がむしろ不自然ではなかろうか。

既に武器(アームストロング砲なども)、艦船の売買で冨を得、長崎の1万5千坪、大砲も備えた一等地のグラバー邸に出入りした龍馬は、この時期を期して貿易の面白さに目覚めると同時に、グラバーのエイジェントとしての働きもして行く。

尊王攘夷の長州藩は、幕府の第一長州征伐で敗退し、併せて同時期、下関で外国船打ち払いの砲撃を開始。外国勢、幕府からも四面楚歌となり長州藩は経済封鎖となる。龍馬は薩摩藩の西郷、小松帯刀に薩長の連合を説くと同時に、表向きどの藩にも属さない交易商社を薩摩藩と豪商小曾根の援助で設立準備。交易は主に長州に武器、薩摩に食糧を輸送することで軍事面強化をサポートする。65年5月初旬、薩長和解を斡旋する。5月中旬には亀山社中を設立した。
翌年1月21日、薩長同盟成立。勿論、交易品の仕入先はグラバーである。グラバーは此処で龍馬に商人として交易のハウトゥを教えている。同時に将来を期待していたと思われる。

大阪薩摩藩邸で行なわれた薩長同盟の会合、及び内容は、薩摩からすれば長州への一方的軍事援助同盟で、長州の桂小五郎はお願いする弱い立場にあった。話し合いの流れは協議として両藩とも同盟の意味を認識しあっていた。
しかし、桂にすれば約束の裏付けが上手く取り込めなかった。そこへ脱藩者で、郷士クラスの龍馬の登場が世紀の大役をこなすことになった。武家の封建社会ではとても考えられない役回りと思われたが、龍馬の一喝はグラバーの一喝と薩摩の重鎮は受け取らざるを得なかった。龍馬が、薩摩の軍事顧問で武器、軍艦の供給者、グラバーのエイジェントであったとすれば、何の不思議もないことである。龍馬は立派に同盟誓約文の後見人として、ちゃんと裏書の墨を入れたのである。

◆大政奉還の成立、そして戊辰戦争

龍馬が暗殺される一カ月まえ、将軍徳川慶喜は10月14日、政権奉還を朝廷に申し出する(奏上)、朝廷はそれを受理。

この大政奉還は政権を幕府から、朝廷に返上すること。そこでは政治形態で世直しをしましょう。朝廷が中心ですよ。という意味である。

このゴールに到達したということは、日本歴史のパラダイムとして、がらっと価値観が変ったと言うことでもある。ペルーが浦賀に現れて以来15年の間、列強が日本国を取り巻く中で、王政復古派と幕府維持派と政権の争奪戦で、節目となったのが、山内容堂の幕府提出の「大政奉還」建白書であった。これは家来の後藤象二郎が容堂に進言したもの。また、それは龍馬が後藤象二郎に夕顔の船上で書き溜めた、俗にいう「船中八策」が原点になっている。

では、龍馬のこのような先を見据えた先見の明はどこから来たのか。夕顔丸に乗船する6カ月前に熊本の横井小南を訪れている。また、同時期に横浜で発行のジャパンタイムスで、日本のあるべき方向として、アーネスト・メーソン・サトウらしき人物が書いた記事が、”English Policy”として、「船中八策」の意見書の内容と趣旨は同じである。それゆえ政権担当者の一部上層部は既に、態勢を読んでいたようで、家老の板倉勝静が将軍に山内容堂の建白書提示した時は、将軍の政治顧問の西周を中心に審議されていたのではないか。そのため、板倉に容堂が提出して十日後に早くも、慶喜はあっさりと返上を申しでた。

◆戊辰戦争

それでも、龍馬の宿願であった無血革命は実現せず、戊辰戦争1868年1月27日、鳥羽、伏見戦争を皮切りに翌年5月の五稜郭陥落まで、日本列島を二分して、維新軍と幕府軍が戦うことになった。これにより、700年間の武家政治から、天皇を中心の維新政治に移行。これを以って日本は近代国家の建設に向かうことになる。